「あらっ、子供たちは」
風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに入ってきた妻の伽耶は、さっきまでリビングでゲームをして遊んでいた子供たちがいないことを夫の和也に尋ねた。
「もう部屋に眠りに行かせたよ」
和也がチラッと向けた視線の先を見ると、部屋の壁にかけられた時計が目に入る。
10時10分。
「ああ、もうこんな時間なのね」
「毎日10時には眠りに行く約束だからな」
そう言って和也は目の前に置かれた少し温くなったコーヒーを一気に飲み干し、そして手にした新聞に目を落とした。
「何を読んでいるの」
「うん」
和也は手に持った新聞に軽く目をやってから新聞を閉じ、そして机に新聞を置いた。
「明日の競馬をね」
伽耶はそれを聞いて、意地悪な笑みを浮かべて言った。
「あれ、競馬はやめるって話じゃなかった?」
和也もつられるように笑みを浮かべて答えた。
「馬券を買うのはやめるとは言ったけど、競馬を見るのも予想をするのもやめるつもりはないよ」
「和也はそれで楽しいの?」
「寧ろ馬券を買わないことで欲無しで純粋に競馬を見れて楽しいよ」
「ふーん、楽しいならいいんだけどさ」
伽耶はそう言ってキッチンの方に行き、冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注いでいる。
「伽耶は覚えているか」
和也に突然そう聞かれた伽耶はコップの麦茶を一口飲んでから答えた。
「何を?」
和也は机に置いていた新聞を手に取った。
「昔、初めてWINSに一緒に行った時のこと」
「WINSってなんだっけ?」
「場外馬券場のこと。ほらっ、昔、後楽園のところある馬券場に行ったじゃないか」
「あー、そういえばそんなこともあったね」
「でもあんまり覚えてないかも」
伽耶はあまり興味がなさそうな返事だったが和也は気にせずに話を続けた。
「10年くらい前だったかな、あの時初めて一緒に馬券買いに行ったレースが、今週ある桜花賞ってレースなんだよ」
伽耶に思い出してもらおうと力を入れて話す和也だが、伽耶は変わらず興味はない様子だ。
「うーん、やっぱり覚えてないかな」
「伽耶も馬券買ってたんだぞ、しかも当たってたし」
「えっ、そうなの」
「そうそう、名前が可愛いと理由で買った馬の単勝馬券がね」
「それも覚えてないの」
ここまで話しても覚えていないことに和也は軽く苛立ちを感じていた。
「ごめん、ほんとうに覚えていないわ」
そんな和也の様子が伽耶に伝わったのか、さっきまでとは少し異なる低い声のトーンで申し訳なさそうに言った。
そして、伽耶はそんな微妙な空気感になりつつあるのを変えようと、今度は自分から和也に問いかけてみた。
「その馬はなんて名前だったの?」
伽耶の問いに、和也はやっと自分の話に興味を持ってもらえたと思い、少し機嫌を直して話し始めた。
「アユサンって名前だよ」
「たしかに可愛い名前ね。私が選びそう」
「そうだよ、競馬新聞見せて、好きな馬一頭選んでって言ったら即決でアユサン選んでいたし」
「そうなんだ、覚えていなくてごめんね」
伽耶の申し訳なさそうな感じに、和也は苛立ちはすっかり消え失せ逆に申し訳なく感じてしまった。
「いや、もういいんだよ。それよりさ、明日の桜花賞、伽耶はどの馬がいいと思う」
和也は手に持った新聞を伽耶に見せるように持ち上げて見せた。
伽耶は和也のほうに近づき、そして和也の隣の椅子に腰かけた。
そして和也から競馬新聞を受け取り、そしてそれに目を通した。
「なんかゴチャゴチャしていてよくわからないわね」
「ここを見ると、馬の名前が書いてあるよ。桜花賞は18頭立てだから、この18頭の中から選んでよ」
「うーん、どれがいいかしら」
伽耶は新聞を片手に悩んでいたが、しばらくして一頭の馬の名前を指さした。
「これにする」
それは、、、
”コラソンビート”
「どうしてこの馬にしたの?」
和也が聞くと、伽耶は困ったような笑みを浮かべて言った。
「なんとなくだけど、男らしくて強そうな名前な気がして」
それを聞いた和也は、伽耶と同じように困ったような笑みを浮かべた。
「そうか、コラソンビートか」
「いいんじゃないか、2度目のビギナーズラックがあるといいな」
それを聞いて伽耶は、笑顔で和也に返事を返した。
そして伽耶は手に持った新聞を和也に渡し、椅子から立ち上った。
「じゃあ、髪乾かしてくるね」
そう言ってリビングから出ていく伽耶の背中を見送った和也は、手に持った競馬新聞をまた開いた。
「本当に何も覚えていないんだな、桜花賞は牝の馬のレースだぜ」
和也は机に置いてあった赤ペンを取り、一頭の馬に赤丸を付けた。
”コラソンビート”