前のめりにパソコンに向かっていた和也は、マウスを動かす手を止めて座っていた椅子の背もたれに寄りかかった。そして軽く首を左右に動かし、凝り固まった首回りの筋肉をゆっくりと解した。
「ふぅ、やっと終わった」
そうつぶやき、壁にかかっている時計を見ると11時40分を少し回ったところだった。
今頃、伽耶たちはちょうど楽しんでいるころか。
和也は周囲を見渡す。普段は10人以上はいる狭いオフィスが今日は和也一人のため広く感じる。
今日は土曜日で通常であれば休日だったが、和也は会社に来て仕事をしていた。
週明けの会議で使う資料を完成させる必要があったためだったが、いつもだったらこのくらいの仕事は家でやっていた。
だが今日は少し事情が違った。
伽耶から自宅で子供たちのママ友とランチ会をしたいと話があったのは先週のことだ。
持ち回りで今までやってきていて今回はうちの番になったらしい。
その話を聞いたとき、和也は意識はしていなかったが少し嫌な顔をしたらしい。それを見て伽耶はママ友との付き合いが子供たちにとってどれほど大事かを力説を始めた。
しまったと思った。和也もそのくらいのことはわかっているつもりだった。
だから力説を続ける伽耶の話を遮って、反対するつもりはないことを伝えた。
伽耶はわかればよろしいと言い、子供たちのために協力してねと笑った。
そんなこともあり、週末仕事をする必要ができてしまったことで、否応なく休日出勤をして会社で仕事をすることとなったのだった。
ただ仕事がなかったとしても自宅でランチ会をやっているときに和也に家に居場所があったとは思えず、仕事で会社に来ることになったのはあれこれ考える必要がなく都合がよかったとも言える。
とりあえず来週の会議で使用する資料は完成したが、まだ家に帰るのは早い。どうしようかと思ったが、後のことを考えるのはとりあえず置いておいて、まずは昼ご飯を買いに行こうと和也はオフィスを出て近所のコンビニにへと向かった。
コンビニで弁当と飲み物、新聞を買ってオフィスに戻ると、先ほどまでは誰もいなかったオフィスに一人デスクに着いている女性がいた。
和也がオフィスに入ると、口に何かを頬張っていたのか、慌てて口を押えながら「お疲れ様です」とその女性は立ち上がって和也に向かって軽くお辞儀をした。
和也は「お疲れ」と声をかけ自分の席に向かう。
その女性は和也と同じ部署で働く河合園佳だった。今年の四月に新卒で入社したばかりの新人で、今日は新人研修のため出社しているのだった。
和也が入社したころは新人研修は新人全員が本社に集められて行っていたが、今は本社と各支店をリモートで接続してテレビ会議を使って行っている。これも経費削減の一貫らしい。たしかに合理的だと和也も思う。
たしか他の部署の新人も2人ほど研修に参加していたはずだが、その2人の姿は見えなかった。
「他の2人はどうしたの」
園佳は再び食べようと弁当に向けた箸を止めて答えた。
「あの2人は近所のマックに食べに行きました」
「河合さんは一緒に行かなかったの」
そう聞くと、手に持った箸を目の高さに持ち上げて和也に見せた。
「私はお母さんが作ってくれたお弁当がありますから」
和也が園佳の机を覗くとたしかにお弁当が広げられている。
そういえば、毎日園佳はお昼は自分の席でお弁当を食べていたと和也は思いだしていた。
成人した娘のために毎日お弁当を作ってれる母親は愛情深いのか子離れができないのかどっちなんだろうかと和也は思った。
だがそれぞれ家庭には事情というものがある、他人が軽々しく詮索するものではないとも思った。
和也は話題を変えることにした。
「研修はどう?」と聞くと、園佳は困ったように笑って、「ずっとリモートで話を聞いているだけなので、正直なところ眠気との闘いです」と言った。
「研修とはそんなものだよ」と和也も笑った。
和也も毎年会社の指示で研修を受けているが、眠気に何度負けたことかわからなかった。
和也は自分の机に買ってきた弁当と飲み物、そしてスポーツ新聞を置いた。
それを横目で見ていた園佳は、スポーツ新聞の一面が見えたらしく、少しテンションがあがったように見えた。
「明日は天皇賞ですね」
和也は半年前にこの支店へと異動してきた。本社勤務のときは同じ部署に競馬好きの人が何人かいたため、よく競馬の話で盛り上がっていた。
だけどこの支店に異動してきてからは、同じ部署に競馬の話をできる人がまったくいなかったため会社では競馬の話をする機会がなくなっていた。
だが、4月に新入社員として入ってきた園佳が自己紹介の際に趣味は競馬ですと皆の前で堂々といったときに、驚きとともに喜びを感じたことを思い出した。
その後、園佳が同じ部署になると、自然と競馬の話をするようになっていた。
園佳の父親が昔から競馬が大好きでその影響で競馬に興味を持ったと園佳は言った。それも和也と同じだったことで親近感を覚えた。
園佳は競馬好きが高じて乗馬をするようになり、中学生のときには将来は騎手になりたいと言っていたらしい。ただその後、乗馬中に落馬で怪我をしたことでその夢はあきらめざるをえなかったようだ。
ただ、競馬好きはその後も変わらず、そして乗馬も続けていると言っていた。
楽しそうに天皇賞の話をしてきた園佳はほんとうに競馬が好きなのだなと和也は思った。
「河合さんは天皇賞が好きなの」
そうすると、園佳少し考えるような顔をした。
「うーん、どうですかね。どちらかと言われれば好きなレースなのかもしれないですけど。だけど、私の父は間違いなく天皇賞春が大好きですね」
「へえー、そうなんだ、どうして」
「実は父が一頭大好きだった馬がいて」
「どの馬?」
「ライスシャワーです」
「ライスシャワー、、、結構昔の馬だね。非業の死を遂げた名ステイヤーだ」
和也はもちろんリアルタイムで見たことはなかったが、競馬の本や昔のレースの映像などでその小柄だが無尽蔵のスタミナで大レースを何度も勝った漆黒の馬のことはよく知っていた。
「父が言うには、ライスシャワーは2度目の天皇賞春の勝利で初めて主役になれたそうなんです」
「どういうこと?ライスシャワーは菊花賞も天皇賞春も2度勝ってるし、間違いなくずっと主役だった馬でしょう」
「ライスシャワーは菊花賞も一度目の天皇賞もレースの主役ではなかったそうです」
和也がどういうことだろうという顔をしていると、園佳はさらに真剣な顔で説明を続けた。
「菊花賞はライスシャワーが勝った菊花賞ではなく、ミホノブルボンがライスシャワーに3冠を阻止された菊花賞で、一度目の天皇賞春はライスシャワーが勝った天皇賞春ではなく、メジロマックイーンがライスシャワーに3連覇を阻止された天皇賞春だったということらしいです」
「なるほど、そういうことね。その二つのレースは主役は勝ったライスシャワーではなく負けたほうだということか。たしかにそう言われると納得できるものがある」
さっきまで真面目な顔で必死に説明していたが、和也に伝わったことで安心したのか園佳の顔の表情が緩んだような気がした。
「だからライスシャワーがやっと主役になることができた天皇賞春に感動したし、忘れられないレースだと父は言っていました。そしてライスシャワーのようなステイヤーがまた現れてほしいとも言っていました」
和也は話しながらコンビニで買ってきた弁当を開けようとしていたが、その手を止めて横に置いてあったスポーツ新聞の競馬欄を開いた。
「今年の出走馬にライスシャワーのようなステイヤーっているかな」
その問いに対して、園佳は弁当の中からつまんだプチトマトを口に運びながら言った。
「一頭いますよ、父の一押しが」
和也は天皇賞春の出馬表を見ながら言った。
「どの馬かな」
園佳は椅子から立ち上がり、和也の席に近づいてきた。
そして和也が広げる新聞をのぞき込んで一頭の馬の名前を指さした。
「この馬です」
”ディープボンド”
「たしかにそうだね。毎年惜しいレースだし今年こそ勝って主役になれるといいね」
それを聞いた園佳は満足そうにニコッと笑ってから、自席に戻っていった。そして箸を取って弁当の続きを食べ始めた。
それを横目で見つつ、和也は机の上に置かれていた赤ペンを取り上げると新聞のディープボンドの名前に赤丸を付けた。
そして新聞を机の横に置いて、コンビニで買った弁当を開けて食べ始めた。