【通りすがりの短編小説】ヴィクトリアマイル

「未来から来ただって?」

和也は思わず大きな声を出してしまった。

ハッとして、とっさに周囲を見渡してしまったが、店内には和也とマスターの2人しかいなかった。

「ええ、先週くらいからここ数日、何度かお越しになられてたのですが、先日来られた際にここだけの話ということでコッソリと教えてくださいました」

初老のマスターは抑揚のない淡々とした話し方で、さも普通のことのように話す。

「いやいやいや、そんなの嘘でしょう」

和也は酒が入ってはいるが、さすがにそんな話は鵜呑みにできない。

「私も最初は面白い冗談だと聞いておりましたが、詳しく聞くと意外と説得力がございまして」

もしこれが、他の人の話ならば和也は少しも信じる気にはならなかったと思うが、このマスターが言うならばもしかしたらという気もしてくる。

和也がこのカウンター席しかない狭いBARに偶に来るようになったのは一年程前だった。

自宅からの最寄駅前にある商店街の一角にある雑居ビル、その地下にこの店はあった。

偶々入った店だったが、聞き上手なマスターとの会話が楽しく、また趣味も合ったため何度も通うようになっていた。

そしてマスターと接しているうちに、その誠実な人柄にいつしか信頼を寄せるようになり、他では言えないような愚痴なんかも話せるような関係性になっていた。

それにしても、と思う。

この店はマスターの大らかな性格のためか、以前から変わった客が多い。

いつも決まった酒を一杯だけ注文し、それを一気飲みしてすぐに帰る男。

鏡を持ってきて、鏡の中の自分に話しかけながら酒を飲む女性。

和也は最初そのような客を見て驚きを隠せなかったが、そのような他の店では嫌がられそうな客でもこの店は受け入れてくれる。

それはマスターの優しさなのだと思うが、やはりそのような客の存在を変に思う客も少なくないと思う。この店の客がいつも少ないのはそのせいではないかと和也は思っている。

マスターはそんな状況でもいつも平然とした様子だが、一度、こんな客ばかり大丈夫なのかと、余計なお世話とは知りつつ、それとなく聞いてみたことがあった。

すると「この店は私が趣味でやっている店でございます。私はどのようなお客様でも大歓迎です」とさらりと答えた。

以前、別の常連客と話をしたときに聞いた話では、マスターの奥方は都内でクラブを経営している実業家らしい。ならば趣味というのも概ね間違いないのだとは思う。

それならばそれで和也が気にすることではないが、それにしても今度は未来人か。

「その未来人はどんな感じの人だったの」

記憶を探るようにマスターは普段から細い目をさらに細めた。

「その方は男性で年は30歳前後くらいでしょうか。ご本人が言うには今から25年後の未来からタイムスリップをして来たと言っておられたと思います。具体的にどのような方法でタイムスリップをしたかは秘密だそうです。」

「秘密ねぇ、なんで秘密なんだろう」

「タイムスリップの方法は未来の日本で発見されたらしいです。ただ、まだテスト段階のようで、その方がタイムスリップをしたことがある3人目とのことでした。誰でもかれでもタイムスリップするとどんなことが起こるかわからないため、タイムスリップの技術は厳重に管理されており、未来ではまだ一般には公表されていないそうです」

「そうなんだ。でも、そんな重大な秘密をマスターにはあっさりと話たってこと?」

マスターは薄っすらと笑みを浮かべた。

「そうなのです。私もまったく同じことを思いましたので、お聞きしたのですが、そうしたらこれは一つの実験のようです」

「実験?」

和也はグラスに入った水割りを飲み干し、そのグラスを置くとすぐにマスターがグラスに氷と酒を継ぎ足す。

「ええ、過去の人間との関わりを持つことで、どれだけ未来に影響が出るかを観察するとかで」

「未来に影響、、、う〜ん」

並々と注がれた水割りに再び口をつける。酒による酔いが思考をぼやかす。

「このあたりは私も難しくて理解できなかったのですが、簡単に言うと、未来は常に一定ではなく、不確定要素によってさまざまに未来が分岐するそうです。ですので、過去で変化を起こすことで、その未来から来られた方がいる未来と、今のこの世界の未来は別のものになるようなのです」

和也は急に頭の中に一つのワードが浮かんできた。

パラレルワールドか」

「そうです、それです。あの方もそのようにおっしゃっておられました」

「だから私が未来に起こることを教えてほしいと聞いてみたのですが、その方が居た未来に起こっていることが、この世界の未来に必ず起こるわけではないからと断られてしまいました」

和也はうんうんと首肯した。

和也はそこまで聞いて、一つの結論が出ていた。

「なかなか巧妙な話だったけど、そういうことならば結局その男が未来から来たことは何一つ証明することができないということでしょう。マスターも乗せられちゃいましたね」

マスターは変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。

「やはりそう思われますか」

「そう思いますよ。そもそもその男はなんでそのような重大な話を、わざわざこんなところに来てするのでしょうか、、、」

そこまで言ってから「あっ、、すみません、こんなところなんて言って」と慌てて訂正をした。

だがマスターは気にしていない様子で表情を変えることもなくいった。

「どうもその未来から来られた方はここで会いたい人がおられたようです。でも残念ながら結局会うことはできなかったみたいです」

和也はマスターの言い方が気になった。

「さっきから過去形で話をしているけど、もしかしてその男はもうこの店には来ないの」

「ええ、昨日も来られていたのですが、その際に、もう未来へ帰るとおっしゃっておられました」

和也は酒で少し赤くなった顔を、残念そうに歪めた。

「なんだ、俺も一度会ってみたかったな」

「でも一つだけ置き土産をいただきました」

そう言って、カウンターの裏から何かを取り出してテーブルの上に置いた。

それは競馬新聞だった。

「未来から来られた方が、いろいろ話を聞いてもらったお礼に一つだけ未来のことで知りたいことを教えていただけるとのことだったので、今週の日曜日に行われるヴィクトリアマイルの勝ち馬を教えてくださるようお願いいたしました」

和也は少し身を乗り出してマスターを見た。

「おっ、さすがマスターだね。それは今この瞬間の競馬ファンが一番興味があることだからね」

「未来から来られた方は、競馬はあまり詳しくないと言われておりましたが、お調べいただけるとのことで、その結果を昨日来られた際に教えていただきました」

「で、どの馬が勝つって言っていたの」

マスターは競馬新聞を広げて、ヴィクトリアマイルの出馬表を和也に見せた。

そこには一頭の馬の名前に黒いボールペンで丸く印が付けられていた。

 

"ナミュール"

 

マスターは自身の服の胸ポケットから千円札を出して新聞のうえに置いた。

「この千円でこの馬の単勝を買うつもりです」

和也は、グラスに残っていた水割りを一口飲んで、口から少しこぼれた酒を手の甲で拭った。

「でもさっきの話だと、もし外れたら、マスターに教えたから未来が変わったとか言いそうだけどね」

すると、マスターは今日一番の笑顔を浮かべた。

「そのために馬券を買うんですよ」

和也は「なるほど」と言い、やはりこのマスターは優しい人なのだとあらためて思っていた。

おそらくこの馬券は当たっても外れても、この未来から来た男がまた来るまではずっとこの店にあり続けるのだろう。