【通りすがりの思い出語り】日本ダービー①

どうも、通りすがりです。

 

「ダービーの馬主になるのは一国の宰相になるより難しい」

と、誰かが言ったとか言わなかったとかいう話がありますが、これは要するにダービー馬の馬主になるのがどれほど難しいかということを分かり易く言った例えだということです。

同じようにダービージョッキーになるのも非常に難しいものです。おそらくいつかはダービーの舞台にと憧れ騎手となり、そしていつかはそのダービーの舞台で先頭でゴールしたいと夢見るようになるのでしょう。

且つて、柴田政人という騎手がいました。同期の岡部幸雄騎手とライバルとしてリーディングジョッキーを競い合っていた日本のトップジョッキーの一人でした。

ただ不思議と柴田騎手はダービーとは縁が無く、他のG1クラスのレースをいくつも勝利しているのとは対照的にダービーでは3着が最高という結果でした。

そしていつしか競馬ファンや競馬関係者の間では柴田政人にダービーを取らせてあげたいという声が上がっていきました。その取らせてあげたいは想いであり願いであったと思います。

そんな柴田騎手はやがてある一頭の馬と出会いました。その馬とはウイニングチケットです。

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弥生賞を2馬身差で快勝してクラシックの主役候補に躍り出たウイニングチケットは、皐月賞を1番人気で迎えますが4着(5着入線⇒1頭失格のため繰り上がり)と惜敗してしまいます。ただ当時の中山競馬場の2000mは少しトリッキーなコースで、負けてもなお広い東京コースならばとダービーを1番人気で迎えます。ファンの柴田政人がダービージョッキーになる姿を見たいという想いも後押ししたはずです。

そしてそのダービーではその年の3冠レースを分け合うことになるナリタタイシンとビワハヤヒデとの3頭のマッチレースを制して、見事に念願のダービージョッキーとなったのでした。

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今だから思うことですが、ウイニングチケットの父であるトニービンの産駒の多くはなぜか府中の鬼と言えるほど東京競馬場との相性がよく、それもウイニングチケットの勝利の後押しとなったかもしれません。

ダービーを勝った翌年に柴田騎手は落馬の怪我が原因となり引退することとなり、ウイニングチケットでのダービー勝利は結果として最後のチャンスをものにした形となりました。

余談ですが、当時の私はまだ競馬歴も浅く、柴田騎手にそれほど思い入れもなかったため、芦毛の最強馬の流れ(オグリキャップ、タマモクロス、メジロマックイーンと当時は芦毛の活躍馬が多かった)を継ぐと勝手に思っていたビワハヤヒデを熱心に応援していました。

 

その後のウイニングチケットはジャパンカップ3着などはありましたが、結局日本ダービー以後は1勝もできすに引退します。

引退後は種牡馬入りするもこれといった産駒を出すこともなく、2023年2月18日に33歳でこの世を去りました。

そのためウイニングチケットは柴田政人にダービーを取らせるために生まれてきたとまで言われています。