【通りすがりの短編小説】日本ダービー

和也は自宅のリビングに置かれたソファにどっしりと深く座り、1人競馬新聞を見ていた。

その競馬新聞を持つ手が小刻みに震えていた。

「ついにこの日が来た」

誰に聞かせるでもない言葉を発した和也の目は不思議なほどの確信に満ちていた。

この日が来るまで長かったようで過ぎてしまえばあっという間でもあったようにも思う。そして、この半年の日々が明日のために有ったのだと思うだけで、すでに達成感のようなものが湧き上がってくる。まだ結果は出ていない、すべてがわかるのは明日だと言うのに。

ことの始まりは、半年前の本社から支店への異動だった。

本社への出勤最後の日、和也はしばしの別れを惜しむように本社のある地、新橋の繁華街を目的もなく歩いていた。

しばらく歩いていると飲み屋が立ち並ぶ一角に見慣れない看板がある事に気づく。

「運勢見」

黒と白とで書かれたシンプルな看板と、その横には営業中と料金が1000円とだけ書かれた札がぶら下がった飾り気のない古い木製の扉が見えた。

その店は窓などが無いため中の様子はまったくわからない。そんな店には入るのに勇気がいるなと和也は思ったが、なぜか店の前で自然と足が止まった。

運勢見か、、、明日からは新しい勤務地でのスタートだし、心機一転するためには今後の運勢を見てもらうのも面白いと思った。そして扉についている金属製の取っ手に手をかけると、迷いなく手を引き扉を開けて中に入った。

扉の中は2畳ほどのスペースに机とその机を挟んで向かい合うように椅子が置かれただけの部屋で、その片方の椅子には中年の女性がこちらを見てにこやかに笑って座っている。

女性の後ろには天井からぶら下がった黒いカーテンが部屋を区切るように引かれており、そのカーテンの先はどうなっているかはわからないが、おそらくここを境に裏はバックヤードとしているのだろう。

女性は30台後半から40代前半くらいの年齢と思われ、近所に散歩に行って帰ってきたと言っても違和感がないようなラフな格好をしている。

「どうぞ座ってください」女性が和也の目の前にある椅子を手で差す。

和也が座ると、女性は「私は当店で運勢見をしております、真夜といいます」と自己紹介をしてきた。和也はそれを受けてどうもと軽く返事をする。真夜と名乗った女性はそんな和也の様子を受けて、話始めた。

「早速ですが、それで、今日は何を見てほしいのですか」

和也はとくになにも考えていたかったため、とりあえず「なにを見てもらえるのですか」と聞いてみた。

すると真夜は指を一つ一つ折りながら説明する。

「仕事運でも、健康運でも、恋愛運でもいいですよ。でもあなたは結婚なさっているみたいだから恋愛運はダメですね」

和也がえっとした顔をすると、真夜は自身の左手の薬指を右手の人差し指でトントンと叩いた。

和也は自身の薬指の結婚指輪を見てああっという唸った。

和也は少し考えてから、閃いた様子で口を開いた。

「それじゃギャンブル運を見てもらってもいいですか」

和也はどうだろうと思ったが、真夜は笑顔を浮かべてうんうんと首を縦に振る。

「競馬ですか」真夜は唐突に和也に問いかけた。

和也はドキッとしたが、なるたけ平静を装った風で答えた。

「どうして競馬だとわかったのですか」

「私も競馬好きだから、あなたがギャンブルといった瞬間にピンと来たわ」

和也はさすがに偶然に合っただけだと思ったが、それは敢えて言わなかった。

「それで、競馬が当たらなくて悩んでいると、、、ずいぶん負け続けているみたいですね」

まさにその通りだった。和也はここ3か月くらい競馬がまったく当たっていなかった。

「そうなんです。どうしたら運気があがって競馬が当たるようになるのか教えてほしいです」

真夜は和也が店内に入ってきてから始めて見せる笑顔ではない真剣な顔をした。だがそれも10秒足らずで、すぐにさきほどと同じ笑顔に戻っていた。

「では、これから半年間、馬券を買うのをやめてください」

和也は困惑の表情を浮かべた。

「半年も、、、そんなに我慢できませんよ」

「別に半年間競馬をやめろと言っているわけではありません。半年間馬券を購入するのだけをやめてほしいのです。むしろ、この半年間は予想だけは絶対に続けてください」

和也はどういうことかまったく理解できなかった。そんな和也の納得できていない様子を見た真夜は鼻でふふっと笑った。

「そんな顔をしないでください。嫌ならばやらなくても構いませんよ。でもこれをやりきれば必ず競馬が今よりも当たるようになりますよ」

「どうしてそう言い切れるのですか」

「さきほどもいいましたが、私も競馬をやります。だから競馬で勝てない人が陥る運気を下げる行動もわかっています。その運気を取り戻すための方法がさきほど言ったことなのです」

和也は押し黙って考えた。半年間も馬券を買わないのは、競馬ファンの和也には苦痛だと思った。だが完全に競馬から離れるわけではなく予想はむしろ毎週やれと言う。それならば自分にもできるかもしれないと思った。

「わかりました、やってみます」

「良かったです。では今日から半年だと、、ちょっと待ってくださいね」そう言って、真夜は横に置かれた手提げカバンからスマホを取り出して、何やら調べ始めた。

「今日から半年だと4月末くらいですね。では来年の5月から馬券を買っていいことにしましょう。ただし一つだけ守ってほしいことがあります。最初に馬券を買うときは、絶対にこの馬が来ると思う馬が出るレースにしてください。それまでは5月になっても馬券を買わずに我慢してください」

「いいですけど、絶対にこの馬が来るなんて言えるほど自信があるレースなんて滅多にないですよ」

「大丈夫です。絶対にそのように思えるレースが見えてきますから」

和也は真夜の最後に言った”見える”という表現が気になったが、とりあえず真夜の言うようにしてみることにした。

 

それから和也は真夜が言ったことを忠実に守ってきた。そして半年が経ち5月となったが、まだ絶対に来ると思える馬を見つけることができずにいた。だが今日見ていた競馬新聞に載っていた一頭の馬にその絶対を見ていたことを和也は思い出していた。

そうだった、前にその馬が出たレースで受けた衝撃が徐々と確信と変わり、そして今それは自分の中で絶対の存在になろうとしている。

そう、ついにその日が来た瞬間だった。

 

和也は新聞を片手にソファから立ち上がる。リビングの片隅に置かれた棚まで移動すると、その上に置かれた赤ペンを取り上げキャップを外し、そのペン先を迷うことなく新聞の上に押し付け、力強く弧を描くように動かした。

その一連の動作をしている間、和也の顔はこれから来るであろう至福の時を迎える喜びで溢れんばかりの満足気な笑顔に満ちていた。

 

翌朝、起床した伽耶はベッドの横の床に無造作に置かれた新聞があることに気づいた。

「こんなところに放り出したままにして、ダメなパパね」

そう呟いて今起きたばかりのベッドを見ると、和也は壁に向かった姿勢で寝ていて顔は見えないが、気持ちよさそうに寝息を立てている。

手に取った新聞を広げると、一面に日本ダービーの出馬表があり、そこに赤ペンで丸く印を付けられていることに気づく。

それさ一頭の馬の名前を囲うように丸が付けられていた。

 

"レガレイラ"