【通りすがりの短編小説】安田記念

改札を出た和也は、額に浮く汗を手の甲で拭った。

まだ6月になったばかりだというのになんという暑さだ。

駅の改札の前は人でごった返している。熱気が溜まっているようで暑さが余計に増すのを感じる。早く移動したほうが良さそうだと和也は目的の方向へと歩き始めた。

和也が降り立った駅は新橋駅だった。半年前までは毎日通勤で使っていた駅だったが、久しぶりに来ると、人が多くてまっすぐ歩くのにさえ苦労する。

駅の外に出てみると、18時だというのにまだ明るい。仕事終わりの一杯を求めて歩いているサラリーマンの集団とすれ違う。

和也はそんな中を迷いなく目的地へと歩き続ける。

目的地は駅からはそんなに離れた場所ではない。ただ和也は早く行かなければと気が急いてしょうがなかった。

そしてしばらく歩いた先に、和也が目的とした地があった。

運勢見の店。

和也は、半年前に見てもらった運勢見の女性の助言を受けて、半年間馬券を買うのを控えていた。そして半年後に和也がこれだと思う馬が出てきたらその時に馬券を買うようにと言われていた。

そして和也は先週の日本ダービーで馬券を購入し、そして外れた。

今日、こうして運勢見の店に向かっているのは、馬券が外れたことの文句を言いに行くわけではなった。必ず馬券が当たると言っていたわけではないので、別に外れたことはしょうがないと思っていた。ただ、久しぶりに買った馬券、しかも自信を持って買った馬券だったことが、かなりの興奮を覚えたし、高揚感を感じた。

それまで毎週惰性で適当に予想して、そしてただ外れを繰り返していた半年前とは全然違う感覚だった。とにかく楽しかったのだ。

それを伝えに今日、こうしてわざわざ新橋へと和也はやってきたのだった。

だが、店がある場所についたとき、そこには前にはあった看板が無くなっていた。

扉に手をかけて開こうとするが、扉は堅く閉ざされていてビクとも動かない。

もしかして今日は休みだったか。和也はまさかと思ったが、その可能性を考えないで来ていた自分の思慮の無さに一人苦笑した。

すると、後ろから「どうしたの」と声をかけられた。

振り向くと、割烹着のようなものを着た年配の男性が立っている。

和也はどうしたものかと少し考えたが、ここは正直に話をすることにした。

「ここの店に用事があってきたのですが、どうやら今日は休みみたいで」

すると、男性は怪訝な顔をしている。

「ここの店って、どの店のこと」

「いや、半年ほど前にここの運勢見の店で運勢を見てもらったんですよ」

男性の怪訝な顔はさらに険しくなり、不審な人をみるような顔になっている。

「あんた、何言っているの。ここは一年前まで立ち飲み屋があったけど,その店が潰れてからはずっと空き店舗だよ」

今度は和也が怪訝な表情を浮かべた。

「そんなはずないでしょう。半年前に間違いなくここに運勢見という看板が出てたし、店の中にも入ったし、中にいた女性に運勢を見てもらったよ」

「どこか他のところと勘違いしているんじゃないのか。この辺は似たような建物が多いし。ここがずっと空き店舗なのは間違いないよ。信じられないなら周りの他の店の人にも聞いたらいいよ」

ここまで自信満々に言うからにはこの男性の言うことに間違いはないのだろう。和也は間違いなくここだと思ったが、そこまで言われると自信が無くなってきた。

「そうですか。わかりました、他を探してみます」

ここは引き下がるしかなかった。

その後、思いつく限りの場所を見て回ったがやはりあの運勢見の店は見つからない。どう考えてもやはりあの場所しかないと、先ほどの場所にまた来てみたがやはり空き店舗となっている。

和也は後ろ髪をひかれる思いであったが、あきらめて駅のほうに向かった。今日、彼女には半年前に和也になぜあのように言ったのかの真意を聞きたかった。和也なりに答えは見いだせているが、その答え合わせをして確信をしたかったのだ。

だが、どうもそれはもう叶うことのない望みなのかもしれない。

そもそも、あのときの彼女ははっきりとしたことを言わなかったのは、こうして和也が半年の間での経験から、予想をするとはどういうことかという本当の意味を自分で見出すための導きだったのではなかったのか。

ならば、答え合わせなどは必要ないということなのかもしれない。自分で見つけた答えを信じて、今後も競馬の予想をしていけばいいということなのだろう。

そう考えると、彼女はもしかしたらそのためだけに和也の前に現れた幻のような存在だったのかと思える。

和也は駅に着くと、改札の近くにあるキオスクに行き競馬新聞を買った。駅のホームにあがるとちょうど和也が乗るつもりだった電車が駅から遠ざかっていくのが見える。次の電車までは少し時間があるようだ。

ホーム上にあるベンチに座ると新聞を広げて一面を見る。明日は安田記念だ。和也はしばらく競馬新聞を食い入るように見ていたが、和也が乗る電車が到着すると構内にアナウンスが流れたので、新聞から目を離した。

新聞をたたんで片手に持つと、ベンチから立ち上がった。

 

「ただいま」

自宅に戻った和也がキッチンへと入ると、妻の伽耶がソファに座ってテレビを見ている。

「おかえりなさい、今日は遅かったのね」

「今日は遅くなるって朝家出るときに言ったとはずだけど」

「あれ、そうだっけ」

伽耶は首を捻っている。だがすぐに伽耶はソファから首だけこちらに向けた。

「ご飯は食べたの」

そういえば、と和也は今更ながら晩御飯を食べていないことに気づいた。

そして晩御飯のことを考えたら急にお腹が空いてきた。

「まだだよ、ご飯あるかな」

すると伽耶は、スクッっとソファから立ち上がりキッチンに向かった。

どうやら和也の分は残しておいてくれたみたいだ。

「子供たちはもう寝たの」

和也は部屋の中に子供たちがいないことに気づきキッチンに立つ伽耶に聞いた。

「ちょうどさっきね」

伽耶は鍋に火をかけながら答える。

「そうか」

和也は子供たちの顔を見ることができなかったことで、少し残念そうな顔をしたが、こればかりは帰りが遅くなった自分が悪いからしょうがない。

机の上に手に持っていた新聞を置いて、着替えをしにリビングを出て自分の部屋に向かう。

しばらくして着替えを終えてリビングに戻ると、すでに机のうえにはご飯からおかずが並んでいる。

湯気をあげるご飯とおかずからは和也の空腹を強く刺激する良い匂いが漂っている。

椅子に座り箸に手を伸ばすと、向かい側に座った伽耶が和也がテーブルの上に置いていった新聞を手に取って見ている。

「今週も競馬買うの」

和也はご飯を口に含みながら答える。

「いや、今週は買うのやめておくよ」

それを聞いて伽耶はフフッと笑った。

「先週自信満々で久しぶりに買った馬券が外れちゃったからまた元に戻っちゃったの」

和也は苦笑いを浮かべてから首を横に振った。

「別に先週外れたから買わないんじゃないんだよ。俺、この半年でわかったんだよ。馬券を予想するということは、そのレースを買うのどうかということも含んでいるんだよ。闇雲に馬券を買えばいいというわけではない、まずどのレースを買うのかということを考えることが大切だということに気づいたんだよ」

力説する和也がおかしくて伽耶は声を出して笑っていた。

「そんなにおかしいか」

和也が少しムッとすると、伽耶はまだ笑いながらも謝った。

「ごめん、でも大切なことに気づけたのは凄いよ」

「そうか」

先ほどの不満そうな顔は一瞬のことで、和也の機嫌はすぐに良くなっていた。

「だから今日は伽耶がどの馬がいいか決めてくれ」

「またぁ、前に選んだ馬負けたんでしょ。嫌よ」

「別に負けたっていいんだよ。馬券買わない代わりに応援する馬が欲しいんだよ」

「そういうことなら」

伽耶は30秒ほど新聞を眺めてから和也に新聞を差し出した。

そして一頭の馬の名前を指さした。

「この馬にする」

和也はその馬の名前を見た。

 

"ナミュール "